RIE NAKAJIMA
十年以上前、結婚して東京から広島に移住するという報告をしたとき、仕事仲間のデザイナーがこんな話をしてくれた。
「広島といえば、少し前、妻と一緒に宮島に行ったんですよ。宮島の旅館に泊まって、夜、散歩をしたんです。
ほとんど満月の夜で、嚴島神社の周りの海に、丸い月明かりが映っていてね。
それがすごく綺麗で、妻と『綺麗だね~』ってずっと見ていたんです。
……そしたらね、授かったんですよ。」
長年、子どもを授からず、「もうそろそろ、あきらめるしかないかもしれないね」と話していた折のことだったという。
目の奥に広がった夜の宮島の情景とともに、夫婦の感慨が心に染みて、とても印象的だった。
その時点で、高齢出産に定義される35歳に差し掛かりそうだった私も、ひとごととは思えなかったというのもある。
その後、広島で夫の故郷の廿日市市に移り、当然のように市内で一番の名所である嚴島神社にお参りに行った。
日中だったが、海の中に建てられた風情ある境内に感動し、「平清盛ってとんでもないな」と圧倒されたのを覚えている。
ただ、夜の宮島を訪れる機会はなかった。
それから数年の間に3人の子を授かり、夜に出歩くこと自体、極端に減ったからだ。
そんなことを考えていたら、ふと、夜の宮島に行きたくなった。
あの日から、ずっと記憶の中に、自分で経験したかのような夜の宮島の風景があったのだ。
子どもたちもある程度大きくなった、今なら連れて行けるじゃないか。
───十数年越しのお礼参りだ。
せっかくなので、あの夫婦が見た、海に浮かぶ月明かりの嚴島神社が見たい。
宮島観光協会のウェブサイトにある潮見表で、夜の浅めの時間に満潮になる日を選び、子どもたちを誘って出かけて行った。
本当は宿泊できたら良いのだけど、夜になると便数が減るフェリーの時間さえ把握しておけば、日帰りでも夜の宮島を楽しめる。
夕方のフェリーに乗って、宮島へ。
島内を歩く人は日中に比べれば少ないが、思ったよりも人出がある。
嚴島神社の参拝終了時刻は、季節によって夕方の5時から6時までだ。
まずは久しぶりの参拝をする。
境内は人が少なく、厳かな緊張感がある。

───おかげさまで家族皆、元気です。ありがとうございます。
実はこのときまで、「夜の宮島に行きたい」ということが優先事項で、子を授かったのが嚴島神社にお参りをしたからだ、とまで思っていなかった。
ただ、実際にお礼参りをしてみると、いやいや、すべてつながっているじゃないか、と腑に落ちる。
あの日、デザイナーにあの話を聞いて、広島でここまで子育てができて、良かった。
参拝後、曜日によって夜も開いているお好み焼きの「まとちゃん」で食事をする。
宮島は観光客が帰る夕方で閉まる店が多いから、事前に調べておいたのだ。
お腹が満たされたあとは、日没待ちだ。
海辺の石段に並んで座り、空が暗くなるのをひたすら待つ。
天気が良かったので、思いがけず、海と空の壮大な夕焼けを見ることができた。
淡い水色の空を、オレンジ色の光が水彩画のように彩っている。
誰かと一緒に、海辺で日が沈むのを待つ時間は、とても贅沢だ。
いつもより少しやわらかい声で、ゆっくり話をする。
「今日は学校で、トモくんとトモトモと一緒に遊べたよ。」
末っ子の話は、幼馴染の「トモくん」と、その友だちの「トモ友」のことだ。
名前を呼ぶのが照れくさくて、ずっと「トモトモ」と呼んでいる。
一方で、娘の友だちには「知らん人」という人がいる。
その子も仲良しの子の友だちで、最初からあだ名で呼ぶのが気まずいので、お互いに「知らん人」と呼び合うようになったそうだ。
そしてある日、
「お、知らん人。」
「あ、知らん人。」
と、いつものようにあいさつを交わしていたら、横からぬっと「私も『知らん人』がいい」と言う子が現れ、今では3人で「知らん人」と呼び合っているという。
私は笑いながら「ちゃんと名前を呼ぶことで、良い友だち関係が築けるんだよ」、と親らしいことを言って、夕焼けに目を戻す。
そのとき海の向こうから、私が夫と知り合った当時、友人たちが彼をあだ名で呼ぶのを真似できなくて、結婚するまで「おにいさん」と呼んでいた記憶が、泡のように浮かんで消えた。
こんなところまでつながっていたか───。
と、なんだか力が抜けてしまう。
日が沈むと、夜の嚴島神社はライトアップされる。
夜の海に照らし出された嚴島神社は、膨大な時間に裏付けられた舞台のようで迫力がある。
一方で、どこか女性的で雅な美しさも感じさせる。
そういえば、嚴島神社の御祭神は、3人の女性の神様だったか。
「女性の神様だから、カップルで行くと嫉妬されて別れることになる」
なんてジンクスも聞いたことがあるが、そんなわけあるか、と思う。
いくらなんでも、神様が人の名前も呼べない庶民に嫉妬することはないだろう。

海水が境内の隅々までたっぷりと満たし、月明かりが静かに揺れている。
───この景色を見たんですね。
十数年ぶりに例の夫婦に共感して、ため息をついた。
華やかな嚴島神社とは対照的に、森のほうに目をやると、闇が深い。
「あっ、さかな!」
生き物好きの末っ子が声を上げた。
海の明かりの上を、魚がすっと横切ったのだ。
ライトアップされた嚴島神社と月明かり、そこを横切る魚の風景が、私のもう一つの「夜の宮島」の記憶となった。