RIE NAKAJIMA
公私ともにゴタゴタした日々が続き、疲労がピークに達していた。
両肩が岩のように硬くなり、呼吸は不規則で浅く、指先が冷えている。
休 息 が 必 要 だ────。
いつもなら文庫本を持って布団にGOなのだけど、疲れていても身体は動きそうなとき、ひとりでふらっと出かけることがある。
───遠くに行ってやる。
───海を渡ってやる。
というわけで、自宅と同じ市内にありながら、フェリーが遠出感を演出してくれる、宮島に行くことにした。
実は仕事で知って、いつかプライベートで訪れてみたいと思っていた店があったのだ。
宮島桟橋から人で賑わう表参道商店街を抜け、狭い路地に入り、さらに細い階段をのぼる。そこまで行くと人けはなく、看板もないので、場所を知らないと迷うかもしれない。

少し急な階段にちょっと息が上がり、「これ、道あってる?」と不安になった頃、ようやくその店にたどり着く。
宮島の珈琲店、伊都岐珈琲が手掛ける絶景カフェ「天心閣」だ。
小さな門をくぐり、古民家を改装した店に入る。中はシンプルでおしゃれなカフェだ。ここは料金システムが少し変わっていて、大人ひとり550円の入場料がいる。その代わり、珈琲一杯110円と安価で、一度入場料を払えば、ドリンクやケーキを追加しながらゆっくり過ごすことができる。
私のように、「今日は何もしないぞ」という人にはぴったりの店なのだ。
何より、ウッドデッキのテラスからの眺めがすばらしい。
見晴らしを遮る柵もなく、嚴島神社のある海と緑、観光名所にもなっている五重塔や千畳閣を見渡せる。
絶景は絶景だが、パノラマというより、入江のややこぢんまりとした、ちょうど視界に収まる景色が、「知る人ぞ知る」感があって良い。
テラスにはいくつか自然の樹も生えていて、さながら眺望の良い山の上でひと休みするような雰囲気だ。

その日は平日だったからか、先客は外国人のカップルと、私のようなひとり客の2組のみ。
晴れていて景色は最高、静かだが気まずさのない、のんびりあたたかな空気が漂っていた。
───よし、よし。
私は海を見渡す木陰の席に陣取り、注文した珈琲を待ちながら、読みかけの小説を開いた。
ときどき、遠くで鳥のさえずりがこだまする。
目が疲れたら、景色を見たり、珈琲をすすったり。
カップルも景色を見るだけで、あまり会話をしない。
ひとり客は、私と同じく文庫本を読んでいる。
誰も人の邪魔をしない、あくせく動いたりもしない。
暗黙の「のんびり過ごそう」同盟のもと、心地良い一体感が漂う。
「あ。」
小説が佳境にさしかかり、物語に隠された、とある「すごいこと」に気づいてしまい、わずかに声が出た。
───これはすごい。
興奮して、木のテーブルに本を伏せ、ふーっと大きく息を吐く。
目の前の凪いだ入江の風景が、物語と現実の狭間で、動揺した私をゆったり包んでくれる。
もう一度、文庫本を手に取り、衝撃をなぞる。
───やられた~……。
と、ひとりで身悶える。
目を合わせることはしないけれど、カップルやひとり客に、「ちょっと、これ!」と共有したくなる。
ピチチ、と鳥が平和に鳴いた。
店を出て石段を下り、再び人で賑わう商店街を歩く。
頭の中はまだ小説のことでいっぱいだが、どこからかソースの良い匂いが漂ってきて振り返る。
───お腹すいたな。
気づいたら、深い呼吸ができていた。